2008年07月21日

『813』『続813』書評

813 (新潮文庫―ルパン傑作集)アルセーヌ・ルパンシリーズの『813』を読みました。
昔一度読んだことがあったんですが、ルパン物を読みたくなって読み直しました。

推理小説、冒険小説なので内容をあんまり説明できないのがもどかしい。。。

南アフリカのダイアモンド王ケッセルバック氏が、何者かに拘束されるところからストーリーが始まります。
ケッセルバック氏を拘束したのは、すでに盗みの第一線から退くことを表明してから一度も新聞に名前が挙がらなかった大怪盗アルセーヌ・ルパン。

翌日発見されたケッセルバック氏は殺害され、現場には血で汚れたルパンの名刺が落ちている。
決して人を殺すことがなかったルパンが起こした初めての「殺人事件」。

この「殺人事件」に始まる数々の事件を巡って、ルパンの冒険が繰り広げられるわけです。


ルパンの本名は、ラウール・ダンドレジー。
怪盗としてのルパンは、母方の姓ルパンを名乗っているわけです。
怪盗としても本名のラウールを使って、正式にアルセーヌ・ラウール・ルパンと名乗っています。

他にもポール・セルニーヌとか、ドン・ルイス・ペレンナとか、いくつもの名前を持っています。

その人が本当にその人であるということを立証するのは難しいことです。
ラウール・ダンドレジーはラウール・ダンドレジーであるはずなのに、ラウール・ダンドレジーはアルセーヌ・ルパンであり、ポール・セルニーヌであり、ドン・ルイス・ペレンナでもある。

どれが本当かと言えば、どれも本当ではない。
同じ人格が持っているいくつもの顔という他ない。

同じ人格でありながら、別の人物であるこれらの名前は、それぞれがそれぞれの空間と時間を生きて、それぞれがそれぞれの人間関係を築いている。
図らずもアルセーヌ・ルパンを尊敬してしまうことになっても、自分が尊敬していた人物への尊敬は失えない。

相手のもう1つの顔が、自分の生命を脅かす存在でもない限り、人はその尊敬を抱き続けてしまう。


隠れた真実と見せ掛けの現実という、人間の世界の二重性を追究した冒険小説です。

その二重性を求め、その二重性を利用し、その二重性に裏をかかれるルパンの冒険は、時に絶望の淵に叩き落されるけど、誰にも負けないほど強い生きる情熱が何度もルパンを生き返らせる。

ルパンは、死ぬまで生き続けなければいけない。

誰よりも強く生きることを運命付けられた孤高の怪盗が迎える人生の転換の時を描いた全2巻の大作です。


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2008年05月10日

『エジプト美術』岩波世界の美術シリーズ

エジプト美術 (岩波 世界の美術)西洋美術史のレポートを書くために岩波書店の世界の美術シリーズ『エジプト美術』を読んでいます。

過去にこのシリーズでは『印象派』と『レンブラント』『アール・ヌーヴォー』を読んだことがあって、表現技法や表現の趣向の変化だけじゃなくその歴史的背景とか思想的背景にまで詳しく触れていて、とても理解しやすかったので古代美術史のレポートでもこのシリーズの力を借りることにしました。


エジプトの美術って巨大な石造の神殿とか、規則的に描かれた図形的な人間とか、そういう無機的なイメージしかなくて、古代エジプトの人たちは造形的な挑戦の情熱を持っていない人たちだと勝手に思っていました。

でも、実際にはそういう幾何学的な形態には、死者の魂の永遠性を願う宗教的な意味があり、似ているようで違うところに造形への情熱が垣間見えたり、意外とスペクタクルな世界だということに気付きました。

古代エジプトの歴史って、高校でもあんまり習いませんけど、この本では美術の歴史的背景にまで触れているので、エジプトを取り巻くどういう歴史的変化がエジプト美術を形作り、そして変化させていったのかまで詳しくわかります。

ハワード・カーターが見つけたツタンカーメンの埋葬品以外にも、エジプトの美術には魅力的な作品がたくさんあって、エジプトに行きたくなります。
アブシンベル大神殿とか、ギザの三大ピラミッドは一生のうちに必ず行きたいと思います。

エジプトの自然的形態を記号化することで単純な形態で表現する方法って、日本の美術に通じるものがありますよね。
家紋とか、反物の模様とか、そういうのって自然の形態を単純化して、でもそれと分かるような記号みたいな状態にしてあります。
自然と向き合って生きる民族はそういう芸術に秀でるのかもしれませんね。

古代の美術は自然を見る目が真直ぐで、ものを表現するということに本来的に人間がどういう情熱を持っているのかを思い出させてくれます。

あと、現代人が忘れてしまった自然への畏怖も。
生きるために雨乞いとか、豊穣を祈願したり、病気の治癒を願ったり。
そういうことを図像化して描くことは、現代人は絶対にしませんからね。

なんていうか、人間とは何かということを古代美術から少し学びました。
エジプト美術 (岩波 世界の美術)
岩波書店
ヤロミール マレク(著)Jaromir Malek(原著)近藤 二郎(翻訳)
発売日:2004-04
おすすめ度:5.0
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2008年04月20日

「銀河鉄道の夜」宮沢賢治

新編銀河鉄道の夜宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」がどんな話だったか思い出せなくて、久しぶりに読んで見ました。

ふと思い出そうとしてみても、主人公がジョバンニで、カムパネルラというクラスメイトと一緒に不思議な銀河鉄道に乗って夜空を旅するという漠然とした記憶だけしか思い出せませんでした。


この話は宮沢賢治の童話の中で、彼が何を言いたいのかわからない謎の多い童話だと国語の授業で聴いた覚えがありました。

読んでみても、やっぱり何が言いたいのかはわからない。
もしかしたら、宮沢賢治は何を言いたいわけでもないのかもしれないと思うほどです。

でも、僕はその「何を言いたいわけでもない」というのが、あながち間違いではないような気がします。

彼の本職は、農村の生活向上のために働く活動家でした。
晩年、病に臥せって、自分の空想を全て吐き出すように書き残したのが、数々の童話だと聞いています。

「春と修羅」と「注文の多い料理店」は生前に刊行されたみたいなので、詩人や童話作家と一応言うこともできますけど、たった2作で文筆家が本職だとは言い切れないと思います。


何を言いたいわけでもない。
ただ、この話そのものが彼の言いたいことだったんじゃないか。

夜空を走る鉄道という神秘的で幻想的な空想が、彼の描きたかった浪漫なんじゃないか。

専門家に言わせるとどうなのかわかりませんが、僕はそう思います。
その不思議な感覚、思いついた不思議なストーリーを彼は原稿にして残そうと思ったんじゃないか。

「銀河鉄道の夜」は、一部文章や原稿が欠落していて、未完の作品です。
この空想を書き留めて、いつか完全な作品にするための試作品として書いたんじゃないかと思わせるところがあります。

いくつものモチーフが無造作に織り込まれ、その無造作な脈絡が不思議な感覚を助長しているところもありますが、多分、宮沢賢治はもっと深い意味を持った童話へと作り上げたかったんじゃないかと感じました。

紙に書きとめられていない彼の頭の中にしかない「未完の空想」がたくさんある気がしてならない。
そのたくさんある空想をひとつに結ぶのが銀河鉄道だという、完成予想図が今残っている「銀河鉄道の夜」であって、まだこれは素直で直接的な空想なんだと思います。

ここにもっと意味をつけたかった。
未完で終わってしまったことが悔やまれます。

宮沢賢治の空想の世界を銀河鉄道が案内してくれるような作品が、もしかしたらできていたかもしれないのに。。。
新編銀河鉄道の夜
新潮社
宮沢 賢治(著)
発売日:1989-06
おすすめ度:5.0
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2008年04月13日

浦沢直樹『MONSTER』

Monster (1) (ビッグコミックス)浦沢直樹さんの『MONSTER』を最近初めて読みました。
手塚治虫を尊敬する浦沢直樹さんらしい、命とか生きることを「記憶」をテーマに壮大なミステリーに仕立て上げた作品。

人が生きる上で「記憶」がもたらす影響は計り知れない。
自分という存在を、自分に対して証明できるものは記憶以外にない。
記憶がない状態で、「あなたはこういう人間です」といくら論理的な証拠を持ってこられても、多分誰も「あぁ、自分はこういう人間なのか」と納得できる人はいないと思う。

「自分=記憶」と言ってもいいほど。

ただ、その「記憶」が認めたくない自分の価値を思い起こすものだとしたら、人はどうするだろう。
自分の存在を誰も望んでくれないとしたら、人は生きる意志を保てるだろうか。
果ては、自分の存在の痕跡すら残すことを拒むんじゃないか。

ある人の存在を証明するためには、他人による証明が必要。
もしくは物証とか、証明される本人以外のものが必要。

ヨハンという人物と、テンマ博士という人物が同一人物ではないという証明は、テンマ博士の告白からは成り立たない。
物証、もしくは他の信頼できる人物からの証言が得られなければ、その他人性を証明することはできない。

記憶や記録という、存在の痕跡をテーマにして、生きることを考えるこの作品は奥が深い。
複雑で魅力的なストーリーも、好感が持てる登場人物も、絶対悪と呼ばれる青年の中で眠ってしまった生きたいという気持ちへの共感と繋がっている。

自分と言う存在が望まれたものなのか、望まれなかったものなのか、その疑問が論理的に解けて納得できることは多分絶対にない。
ただそれを信じさせてくれる記憶があれば、その疑問に対する解は必要ない。

「自分は望まれた存在」、「自分は望まれなかった存在」。

どっちかわからなくさせる記憶が、自分の中に眠っていたら。
その忘れていた記憶を何かのきっかけで思い出してしまったら。

人はどうするか。
自分はどうするか。
ヨハンはどうするか。

自分と言う存在自体が、孤独の感情に直結するような記憶を持ってしまったら人は「完全な自殺」を求めるのかもしれない。
自分ももしかしたらそうしたかもしれないし、自分と言う存在をこの世界から完全に消滅させたいと思うほどの感情を持ったことがある人は少なくないんじゃないか。

テンマ博士が悩み続けた「自分があの怪物を蘇らせてしまった」という苦悩は、本当は存在してはいけない。
誰の存在でも、「望まれない」ことはあってはいけない。
存在した時点で、全ての存在は望まれていなければいけない。
周りはそれを信じてもらえるようにしなければいけない。

絶望して、自分の価値を自分で制限してしまうことはない。
自分の価値は他人の中にしか生まれない。
自分がいる限り、他人の中に自分が存在する価値を与えることはできる。

そのために、生きなければいけない。
Monster (1) (ビッグコミックス)
小学館
浦沢 直樹(著)
発売日:1995-06
おすすめ度:4.5
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2008年02月04日

『赤と黒』スタンダール著 書評

赤と黒 (上) (新潮文庫)近代フランスのロマン主義文学者スタンダールの代表作『赤と黒』を読みました。

小説の時代は、フランス革命とナポレオン・ボナパルトの出現によってフランスに訪れた自由の時代が英露に敗れたことで崩れ去り、再び国王や貴族が国政を牛耳る王政復古の時代。

ナポレオンの時代に自らの勇気と剣を奮って地位と名声を勝ち得た老将軍から自由を賛美して才能による出世を願う精神を、町の神父からキリストの教えとラテン語の教養を与えられた主人公ジュリヤン・ソレルが、燃え上がるような野心を抱いて、材木屋の息子からどんどん出世していく話し。

ジュリヤンは神父の卵として黒い服に身をまとっているけど、心の内にが炎のような情熱を持っている。
多分、それが「赤と黒」なんだろうと思う。

ジュリヤンは非凡な才能で名声を、端麗な容姿で女性からの愛情を手にするが、何よりも出世を願う強い野心と自尊心が彼の精神に僅かな歪みを生み出してしまう。

黒に隠された赤がジュリヤンの魅力でもあるのだけど、隠し続けることで田舎からパリに出て純粋な情熱を忘れてしまう。

田舎で心からの恋をしたレーナル夫人と、パリで出会って自尊心を満足させてくれる恋をしたマチルド・ラ・モールとの関係が最後にジュリヤンに悲劇をもたらしてしまう。

ジュリヤンは、新しい家族も地位も富も名声も手に入れようとしていた矢先に全てを失ってしまう。


レーナル夫人との恋も、マチルドとの恋も、「世間の目」という障害のせいで最後に悲劇を迎えてしまう。

スタンダールは、王政復古がもたらしたこのフランスの消極的な社会性をジュリヤン・ソレルの悲劇を通して批判しようとしたんだと思う。

「ナポレオンの時代は」とジュリヤンは言うし、「アンリ3世の時代は」とマチルドは言う。

勇敢で才能溢れるジュリヤンなら、そういう戦争の時代だったら最高の名声を得ていたはずなのに、「平穏な」王政復古の時代はジュリヤンのような地位も富も持たない有能な人物には何も与えてくれない。

それぞれの時代には、それぞれの苦難があるんでしょうね。

今の時代には、ジュリヤンのような苦難はあんまりないけど、他の苦難がある。
ナポレオンの時代にもまた、ある苦難とない苦難がある。


ロマン主義らしい情熱的な小説。
世間の目も、キリスト教も、社会のマナーも、道徳も、個人の情熱より崇高なものはないと言わんばかり。

ジュリヤンは最終的に野心よりも自分の感情を、レーナル夫人への愛を重要視する。
ジュリヤンの浪漫譚はレーナル夫人との恋に始まって、レーナル夫人への愛で終わる。


フランス近代文学を代表する小説だそうです。

どっか聞いた事あるんですが、フランスの高名な政治家の誰かが、毎年1回はこの小説を読むことを自分に課しているらしいです。
自戒の書ってことなんでしょうか??

ジュリヤンのように純粋な情熱を持ち続けなければいけないということか。
ジュリヤンのように心に芽生えた愛情に負けてはいけないということでしょうか。

その政治家が何を考えてこの小説を読んでいるのかはわからないけど、漠然と「多くのことを学んだ」感じがする小説です。

人生で大事なのは、自尊心でもあり、愛情でもあり、純粋な情熱でもある。

個人を重要視する時代でありながら、保守的な王政復古の時代でもあるこの小説の時代には、ジュリヤンのような人間は生きられないんでしょう。
多分、今の日本に生きる僕らの世代も生きられないでしょう。

個人の考え、それぞれの生き方がある時代に生まれた僕らが、ジュリヤンのように何もかも世間の目に適うように生きなければいけない時代に生まれてたらどんだけ大変か。


人によって、「ジュリヤン・ソレルは善か?悪か?」という問いに対する答えは全然違う感じになる気がします。

それぞれの人生観によって、ジュリヤンの生き方の見方が違うでしょうから。

読書好きなら一度は読んでおくべき小説だと思います。
海外の小説が好きなら尚更です。
赤と黒 (上) (新潮文庫)
新潮社
スタンダール(著)
発売日:1957-02
おすすめ度:4.5
posted by ぺろ at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする